創業明治十年 東海製蝋
社員語録
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2001年03月07日の日記
人が残すもの
3月はじめの休日、志賀高原の常宿のホテルに14人のスキーヤーが集合した。幹事は「お久しぶりツアー」とだけ銘打って案内を出し、それぞれが都合をつけて参加した。スキー協会の理事6人は各自の胸の中に共通の目的を秘めていたが、それに就いては誰もが最後まで決して口にすることは無かった。
その目的は、富士宮スキー協会の会長を務めたふたりの男、数年前に晩秋の風と共に忽然と旅立っていったSと昨年暮れに急逝したYに対し、永年に亘り技術指導を受けた弟子として感謝し、ヘリを雇ってニュージーランドの氷河やカナディアンロッキーの深雪を滑った仲間として偲ぼうとするものだった。幸い、Sの同僚と長男夫婦、Yの奥さんと山仲間3人が参加してくれた。
樺太生まれのSは大回転の選手として2回、監督として2回国体に出場の経歴を持っていたが、そんなことはおくびにも出さず、むしろ隠そうとした位の男だったから協会の若い理事達もこのことを知る者は少ない。まして、ご近所や同僚の方々は彼の輝かしい戦歴を知るよしも無かったに違いない。ある時私は、指導員検定を受験する若い人達を自分の滑る時間も惜しんで技術指導するSの姿を目の当たりにして「何故それほどまでに?」と疑問を投げかけたことがありました。「俺が今スキーをやっていられるのは、教えてくれた先輩のお陰だよ。繋いでいくのが俺の役目さ」との応えは、スキーは個人スポーツだからと己の技術の研鑽のみ汲々としていた私には極めて衝撃的な啓示でした。そしてそれを機に、すばらしい人生の選択肢がひとつ私の中に生まれました。
Yは永く山岳会の重鎮としても活躍し、いつも山のような大きさで包んでくれました。その博識は私のような凡人の域を遙かに越え、車中の話題は知らぬ間に彼が中心になっていることが常でした。65歳を越えているのに若い指導員を引き連れてナイターにまで出かけ、よく喰らい、大酒を飲んですぐに大鼾のYのベットは押入の上段と決まっていました。
Sの息子とそのお嫁さんに、彼らが知らないSのスキーヤーとしての偉大さ、もののふのような高潔は人格への我々の限りない尊敬と追慕を語り聞かせました。Yの奥さんは、いつもパワフルな滑りを披瀝しながらも解放された子供のような喜びに溢れていたスキー場でのYの数々のエピソードを暴露しました。心の底から笑い合い、これまで経験したことの無い打ち解けた上質な時間が過ぎてゆきました。
ふたりはとりわけ新雪が好きでした。奥志賀のリフトに乗ると、パトロールの目を盗んでは喜々として飛び込んでいった斜面が次々眼下に現れます。スキーヤーはたとえ点のような遠くの存在でも2〜3回転見れば仲間の滑りが分かります。滑りが脳裏に焼き付いているからです。いつしか私は彼らのイメージをなぞりつつ新雪に何本も何本もシュプールを刻みながら、もう現実には見られない彼らの滑りをいつでも思い出せる幸せに気づいたのです。
帰宅後Yの奥さんから「ありがとう。本当に楽しかった」と電話を貰った時、私は何か小さな任務をやり遂げたような安らぎを感じました。「人が死ぬとき残るものは、集めたものではなく、与えたものである」ジュラールシャントリの言葉だ。
2001年03月07日(水)
No.9
(船長)
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